あなたは、自分など無くなってしまえばいいと思っている。
あるいは世界など消えてしまえばいい、と思っているかもしれない。
この情報が溢れかえる世界を整理しきれないあなたの頭のなかは、いくつかの事象を取り込むだけでいともたやすく飽和点に達し、必要か不必要かの判断を下す間もなく処理しきれぬ情報が目や耳や鼻から、体中の穴と言う穴から音も立てずに流れ落ちていく、真昼間から臆面もなく。
ただ、ここでいう「情報」とは一般的に「情報化社会」といった際に使われる「情報」ではない。テレビやラジオ、インターネットや雑誌や本。こういったツールはあくまで恣意的な取捨選択のもとに情報を単純化、図式化するための道具である。あちこちに溢れる、原初的で野蛮な情報を捨象し、抽象し、秩序を与えることによって、わけのわからないものに名前をつけて安心するための発明である。あるひとが「文化とは文のお化けである」と言った。
あなたは、彼がそんなまとまらない話をしているのを、高速バスで8時間揺られた体を引きずって入ったイノダコーヒー本店でおいしいのかおいしくないのかよくわからないコーヒーをすすりながら話半分で聞いている。動きたくない、ずっと座っていたい、外に出たくない、でもここにもいたくない、あなたはいつものようにそんなことを考えている。まわりが東京だろうが、京都になろうがあまり関係はないのだな、とあなたは思う。そして死んでしまった猫のことを、ふと思う。それもいつものことだった。
そしてあなたはいま、またしても東京の自分の部屋にいる。あれからコーヒーを飲んでいないあなたは湯を沸かし、日東紅茶のティーバッグを取り出し紅茶を作り、飲んでいる。そして飽きもせず、いまとなっては会うこともなくなった彼のことを考えて、タバコを吸う。いまこの瞬間、離れてしまった人のことを思いながら紅茶をのみ、タバコを吸っている人間は世界にどれだけいるのだろう、とあなたはしばし考えて、すぐ止める。
けれども恐らく、とあなたは思う。
その瞬間、離れてしまった人は、離れてしまった人を思う人間のことなど考えていないのだろう。
つまり、彼はあなたのことなど思ってはいないのだろう。
あなたはまた、自分など無くなってしまえばいいと思うだろう。
あるいは世界など消えてしまえばいい、と思っているかもしれない。
テレビから差し伸べられる救済の手を、あなたはうまく掴むことが出来ない。
中央線の線路近くに建つあなたの部屋には、午前1時になると貨物列車が西に向かって走る、鈍く低い、長いとも短いともいえないミニマルな騒音が届けられる。あなたは、それを快いとも不快とも感じない。それは、ここから夜です、という宣言であり時報であり、チョークで書かれた白い線のようなものだ。それは、一日で正確にひと箱のタバコを吸うあなたにとって、そろそろタバコを買いに外に出なくてはならない、というただのひとつの合図である。
あなたは財布から320円を取り出し、ポケットに入れる。外に一歩足を踏み出し、わざとらしく外の空気を吸い込んだあなたはひどく咳き込むことになる。涙が出るほど咳き込んだあとは、少しからだが軽くなっていることにあなたは気づく。
近くのセブンイレブンでいつものようにマルボロライトメンソールを320円で買い、家にかえろうと歩いている道中で、あなたはそこにうずくまるような形のハチの屍骸を見つける。あなたは立ち止まり、しばしの間それを見つめてしまう。ハチを見つめていたわけでも、「死」をそこに見出していたわけでもなく、ただハチの屍骸を見つめていた。するとそこに、猫がやってきた。全身を白い毛で覆われ、スタイルもすらりとしているにもかかわらず、その見目とは裏腹にどこか遠慮がちで愚鈍な印象を受ける、小市民的な猫だなとあなたは思う。猫はあなたをけん制しながら、慎重に様々な可能性を検討した結果、ハチの屍骸を口に含んだ。
あなたは猫がハチの屍骸を咀嚼する様子を見て思わす声に出して呟く。
「タンパク質…」
あなたは踵を返し、そのまま深夜の西友へと向かう。
西友は夜中も営業しているのでうれしいな、とあなたは思う。
しかしまだあなたは気づいていない。
恐らくあなたは西友をくまなく歩き回り、散々迷った挙句、78円で3パック入りの納豆と一丁38円の豆腐をかごに入れレジに向かうだろう。あなたは大豆タンパクに対して信仰とも思えるほどの信頼を寄せているのだから。それは、まあいい。
あなたはそのかごを持ってレジへと進む。この時間にレジが混雑しているはずもないので待つこともなくすんなりと会計を済ますことが出来る。眠そうな素振りもみせない男性店員が透明な口調で、袋は要りますか、と聞いてくると、あなたはいつものように、お願いします、と応える。116円です、という店員の透明な声が聞こえたときに、あなたは気づくだろう。あなたは財布を持っていない。
あなたは、スミマセン財布を忘れてしまったのでちょっと取ってきます、といって家へ財布を取りに戻るだろうか、いやおそらく、あ、とか、スミマセンとだけ言ってかごを持って売り場に商品を戻しにいくだろう。
いずれにしても男性店員は言うだろう。
「あ、はい…」
と。
その声には先程までの透明さとは違う不思議と淡い色が孕んでいる。
そのとき男性店員はあなたに恋をしたかもしれないし、恋をしなかったかもしれない。
いずれにしてもあなたはそれに気づく由もなく、丁寧に商品を棚に戻し、
冷蔵庫にあるはずの豆乳の賞味期限のことだけを考えながら帰途につくことになる。
「タンパク質、たんぱく質…」
と呟きながら。